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新ブログ

11月 26, 2013

 新しいブログ作りました。名前が決まっていなくて、仮称で変なことになっていますが。
 よろしくお願いします。

http://paromitalog.wordpress.com

 何となくバイリンガルなのは、特にインドに来てからというもの、オーストラリア時代の友人たちへの近況報告が途絶えがちになってしまったので……。

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思索か瞑想か陶酔か

11月 20, 2013

20131120

 この女の子の像は、オーストラリアの雑貨屋さんでアルバイトをしていた時、何となく気に入って、家族に贈ったもの。何か私みたいだね、と言われている。自分でもけっこう、そう思う。

 このブログの投稿、これで442件目。2年の間に、よくこれだけ書いたな。でも一日一件だったら700はいくわけで、それを考えるとまだまだかな。

 昨日も書いたけど、次にシフトする段階に来たような気がするので、明日か明後日には次のブログに移ります。私の計画というものは、だいたいがその場限りの思いつきで終わるので、何とも言えないけど、自分なりのコンセプトは一応ある。主に、「ダラダラ書きをやめる」。

 今回またケーララに行って、悟りを得て帰って来るぐらいのつもりでいたい、と思う。辛ーい疲れた〜と生き続けることに終止符を打ちたい。いや、本当に疲れるし。なので、あんまりそういうことを書くのもこれを最後にするつもり。どうせなら、ウィットの利いた上質な皮肉に変換する修行をしたいと思います。

 私がまっとうだと思うことは、一般的な観点から見れば、多分ひねくれているので、自分というものが、否定つくしてもまだ変わらないのだったら、孤独を恐れない生き方に転換していくしかないかな。勿論、勿体ないぐらいの応援をしてくれる人もいて、それもしっかり、胸に刻んでいきたい。

 数時間前は、もう少しまとまりのある文章が、脳内で仕上がっていたんだけど、ちょっとぐずぐずしているうちに、どこかへ消えちゃった。

 またね。

また一つ灯火が

11月 19, 2013

 今回の帰国での予定が、今日でほとんど消化された。明日のが急に追加になったけど、まあそれは本当に「追加」なので、帰宅して一気に疲れが出て来た感じ。でも何となく、書き残しておきたいので、書いてから寝ようと思う。

 今も、インドに戻るのはけっこうな恐怖で、と言っても一般的に心配されるようなことではなく、完全に精神的な問題なんだけど、それなりに決意して向かった先がこれほどトラウマの対象になってしまったということは、少なからずショック。

 ただ、それはそれとして、今日でまた一つ灯火が消えたような気がしていて、ああ次に向かうんだなと、そういう確信? そういう感覚が芽生えている。

 次に戻って来る時は、色々な関係性が、また全然違うふうに変化しているのかな、と思う。まあそうなんだろうな。だからやっぱり、行かないといけないんだろう。新しいステージ、新しい生はそこから始まる。でも楽しかったなあ、今回の日本。

 何だか妙な言い方になるけど、今までの私はたぶん、死にかけていて、その最後の旅行みたいな感じで、この二ヶ月あまりがあったのかという、そんな気がする。書いてみると改めて大仰な言い方だけど、そうとしか書きようがない、今の感覚。

 トンネルをくぐりに行くのだ。それか、深海を渡りに行く。

 新しい人間になりに行こう。

プロではないガチな世界

11月 18, 2013

 言わずと知れた民族音楽学者、小泉文夫の数ある著作の中で、「音楽の根源にあるもの」をひとまず、自分の手許に置く用に取り寄せた。

 そしたらなんと、谷川俊太郎との長ーい対談が収録されているのである。やばい。

 そして、そこで語られていることが、すごく、私の感覚の方向性と寄り添う感じで、とても嬉しい。もうインド行きまで何日も無いんだけど、ここで出会えて良かった。

 何と言うかね。歌って私が言う時に、どうしても、詩とセットで、その側面が切り離せない。更に、それがレコードだとか出版だとか言うよりは、その辺の人たちが歌える文化、あるいは私自身が色々な歌を知っていて歌えるという教養、更にできたらその場で歌を即興で作れて歌えてしまう、そういうような文化的な、しかしローカルなところに、私の関心はある。

 これは前にも書いたことがあると思うけど、歌を習っている根本的な理由は、私自身がそういう一種の教養を持っていたいからで、歌いたいように歌える、そういう生き方の自由がほしい、そういう文化がほしいという、そこにある。元々ケララに惹かれた一つの要因は、音楽家たちや舞踊家たちがローカルレベルで食っていける土壌となる文化がある、ということにもあったし。

 こういうこと考えると、小泉文夫という方は、パイオニアでかつ多くの支持者もいらしたと思うんだけど、だけど同時に、すごく孤独だったんじゃないかしら、なんて思えてしまう。インド人のインド音楽にしか興味が無いところとか、私もよく言うんだけど、この対談の中でもおっしゃっていて、文化の独自性に魅入られながらもそれ(自分の音楽にしか興味が無い)を指摘したくなる感性って、意外と少数派なのではないかと感じている。

 でも、そうなのよ。私の向かいたいのはこっちなのよ。と、勇気をいただきました。

求める権利

11月 17, 2013

 パレ・ロイェ・ジャオ・アマイェ 私を対岸へつれていって この間も紹介した歌。もう消え入りそうなぐらい、自分の価値が見つからないような気分の時、歌うようになっている。

 バウルの場合は歌と踊りを通して解脱、と言っていいのか分からないけど、をめざすから、踊り念仏なんかに通じるものがあるかもしれない。でも歌の内容は、「自分の内を見つめよ」「この人生は一回限り」「己の鍵を、他人に明け渡すな」とか、そういう内容だったり、しかもかつてのバウルたちは即興で歌うものでもあったと言われている。

 そうした(「神は己の内にある」的な一元論をベースにした)歌と、バクティ=神に絶対的に帰依する、冒頭のような歌が矛盾しないのは、なぜか。

 先に結論、私の今のところのだけど、を書くと、本当に一生懸命生きている人=己の内なる神に、自らを明け渡している人、には、より大きな存在に救いや最後の一手を求める、その権利がある、ということなのだと思う。

 サンスクリット叙事詩の研究をしていた時、私のテーマには、人、特に女性だったけど、が神に要請をする時の言葉、というものがあった。一般的に、女性だったら善行を積み、真実に忠実で、夫に貞節であれば(最後の項目が重要)、天をも揺るがす呪力を得る。

 これは仮説ではなくて確信として書くけど、叙事詩における神への要請は、命令と紙一重で、それはただのお願いや、人へ命じる時とは、言葉の遣い、つまり文法からして、違うのだ。だけどそれを取り上げている人はいなくて、私は何とかしてそれを語りたかった。

 でも結局のところ、バクティについて考えて行くと、つまりバウルで、どうして自助精神奨励の歌と「神様どうにかして」な歌が矛盾無く共存するのかを考えて行くと、答えは自ずから明らかなのである。

 急に漫画の話になってしまうので恐縮だが、「ロードス島戦記 ファリスの聖女」という、それはそれは美しい漫画がある。この最後に、信仰する神に対して「私はあなたを叱咤する」と、聖女が叫ぶ場面があって、ずっと心に強く焼き付いていた。

 真実、「神」(ここではとりあえずそう書いておく)と向き合っている人間には、それだけの力、あるいは権利、あるいはやはり力、が、当たり前に備わるのだ。そしてバウルで言う神は、常に己の内宇宙に存在する。己の内なる神に、真実自らを明け渡している人間は、当然の請求をする権利がある。

 そんなことを、今日は歌いながら思った。

古代人宇宙人

11月 17, 2013

 昨日は古代オリエント博物館「古代の楽園」という展示に行って来た。主に死後の世界にまつわる美術品他を、エジプト、地中海、西・南・東アジアにわたって紹介している。うっかりパンフレットまで買ってしまった。

 エジプト人はハンパない。という感想からまず始まったが、エジプトに限らなかった。でもやっぱり、エジプト・メソポタミアの文明はちょっと特別というか、格が違うという気がする。宇宙人来てたんじゃないの、と言いたくなるような。今日は根津美術館で中国の青銅器を見たけど、そちらも宇宙人ってカンジで、古代文明の人々に比べたら、紀元後の方々なんてほとんど現代人だな、なんて思ってしまう。

 「」で、吉岡さんが「昔の人に挑戦してるんだ」と、おっしゃっていた。映画の中で、私が一等に感動したのは、東大寺の伎楽の復元・再現場面なのだった。(これはぜひ、いづれ生で観たい。正倉院展にも行かなければ)

 その時も、「凄いなー」とは思っていたんだけど、古代エジプト人の彫刻・描画技術に骨抜きにされて、改めてその(「挑戦している」と言える)凄さを思った。

 つくづく考えるのは、良いものが分かる、見る目があって、それでももの作りに取り組むというのは、大変に勇気がいることだ。自分を常に罰し続けるぐらいの決断だ。

 私は最近になってようやく、まともな審美眼というものが身に付いて来(たような気がし)ていて、そうそう気軽に画を描いてどうのって、できないような気持ちになってしまっている。ただの絵だったら、いくらだって書き散らせるけど。

 凄いなあ。

 あと、蓮の花がエジプトでも重要なシンボルだというのは興味深いと思った。「も」というのは、インドを念頭に置いてね。

ボーッとする幸せ

11月 15, 2013

 ただボーッとする時間が、妙に幸せ。何かもう、次の半年は「ボ〜」を究めるつもりでいればいいんじゃないだろうか。ぐるぐる考えていても、結論には辿り着けない、なんてそんなことは、分かり切っている。ボーッとしている、その中から、智慧を掬い上げられるようになれたらいいな、なんて思う。

 考える力は、私の特性というか、強みであるのだ、と思っている。でも、もうあんまり考えないで生きられるようになりたい。気がついたら産まれて、生きていたんだから、気がついたら歳をとって、死んでいた、そんなぐらいでもいい、と思う。それは、ポジティブな意味でね。

 ルプ・シャゴル(ルーパ・サーガラ)…形象の海、というイメージはいいな。私は海になりたい、って何か歌がなかったっけ。変転するもの、一定でないものは女性性、女神に繋がる。だから形象の海、と言う時、実は女神について語っている。

 トル・アトル・パタル・クジュレ 根の三界に探れば、パビ・レ・プレム・ロトノ・ドヌ 愛の宝が見つかる。この歌はテンポも明るく、ふっと口ずさんでしまう。意味の方は、分かるような、分からないような……ただ、この歌のイメージは好き。

 志なんていらない。男に産まれなかったということは、そういうことなんじゃないかって、思い始めた。何でもいいや。エクタールと歌う時、エクタールの磁場に自分を乗っけて、任せてしまうと、うまくいくというか、正解、という感じ、「飛んでるな」という感じがする。忘れがちなんだけど、そういうことかな。